審美眼とアイデンティティ

2020年9月29日
車一般

車に対して何を求めるか。これは、人によって、状況、シチュエーションによって全然異なると思いますが、選択の自由度が上がれば上がるほど、その選択にはその人の個性が現れます。

おぎはやぎの愛車遍歴という番組を毎週録画してためながら見ています。この前、石黒賢さんがゲストで登場しました。番組の最後に、「石黒賢さんにとって車とは?」という恒例の質問があり、その質問に対しての答えが、「審美眼」というものでした。

審美眼。聞いたことはあるけれども正確な意味がわからない。そこで、ネットをたたいてみました。審美眼、それは、美しいものや価値あるものを見極める目、そのような意味だと書いてありありました。

審美眼という言葉、なかなか普通使いませんから、質問の答えにこのような言葉が飛び出したので、番組でも「ほー」というような空気が流れ、その後、石黒さんは、その答えをした理由を次のように説明していました。

「自分の価値基準みたいなものが如実に表れるもの。何でも移動できればいいという方もいらっしゃるとは思いますが、好きな人からしたら、その人自身を表す、その人が何をもっていいと思うかということが、車で出る、車でわかる。」

このようなことを話していました。この説明は、とても納得というか、共感できました。

私は、常日頃、車が周囲に与える影響は大きいと思っています。

車は、乗る人を包み込む存在。人が車という大きく目立つ覆いを身に着けて道を走れば、その人は、直接は見えず、見えるのは車、ということになります。

例えば、ちょっと飛躍しますが、アニメで言うならば、モビルスーツを身にまとう感じ。操縦する人が、仮に、自由に選択してよい状況なら、その人は、どのモビルスーツを選ぶか。それは、その人の考え、個性がそこに如実に現れます。もちろん、状況、シチュエーションとして、強いという選択肢しかなければ、みんな一番強いモビルスーツを選ぶでしょう。でも、そうじゃない場合、もっと自由な選択肢であっていい場面では、必ずしも一番強いモビルスーツを選ぶのではなく、弱いけれども旧ザクが好きとか、ザクとは違うのだよザクとは、と言うセリフが好きだからグフを選ぶとか、そういう全く個人の好み、基準で選ぶと思います。そして、それに乗り込めば、周りの人からは、コックピットに誰が乗っていて誰が操縦しているかはわからない。その人がどういう理由でそれを選択したのかもわからず、わかるのは、目の前にあるモビルスーツだけ。

車もそれと同じじゃないでしょうか。大人数が乗れる車でじゃないといけないとか、仕事の営業車なので燃費とランニングコスト最優先だとか、そのような状況ではなく、個々人が自由に選択してよいという場面であったとしたら、どの車を選ぶか。もっとも、完全に自由ということはないでしょうが、ある程度の制約はあってもその範囲内で選択できるという場合、どれを選択するかはその人の個性、考え方が反映されることになります。

そして、その車を身にまとって外に出れば、周りからは車は見えても誰が運転しているかは見えない、見えにくくなります。あくまでも、車を通してその人を見る、その人を判断し、この車に乗っている人はこういう車を選択する人なんだなあと、評価することになります。車とは、それくらい影響が大きい存在です。

服でもそうです。ああ、この人は、こんな感じ、色合いの服を着るのかと、周りはそのように見ます。

時計もそうです。手首に付けている腕時計を見て、ああ、この人は、この時計を選ぶのか、と見ます。

服や時計ですらそうですから、それよりももっと包み込む要素が大きい車の場合は、そのように思われても仕方がありません。

逆に言えば、どういう車を選択するかによって、自分というものを表現することになります。

個性を出したくない、自分というものを表に出したくない場合には、できるだけ無難な車、無難な色、みんなが乗っている車を選択するでしょうし、逆に、個性を出したい、自分はこんな人間ですということをアピールではないですけど、個性を大事にしたいと思っている場合には、人とは違う車、色、みんなができるだけ乗っていない車を選択することになります。私は、後者の方で、個性はすごく大事にしたいと思っています。良くも悪くも個性は大事、そう思っています。人とは違うということ、そのこと自体が大事だと思っている人間ですので、できるだけ人とは違う車の方が自分という個性が出せますし、個性を大事にできると、そう思っています。